遠回りする生き方を選んだ人達へ - 心がよろけそうなときに読むポンコツ日記こんな時期なので、タイトルに目を奪われて読んでしまった。この方は僕とは全然違う職種だとおもうけど、自分ができることの一つに同じような人たちを応援すると言っている。
このブログを始めた理由の一つは自分のような王道では”ない”生き方をしてる人たちに、同じようにうだつのあがらないずるずる生きてる人もいますよ。と伝えたかったというのがある。
二流研究者として一流になれないけども、研究の道にしがみついて高齢になってにっちもさっちもいかなくて、どうしようどうしようと毎日頭を抱えてるような、そんな人が実はたくさんいるんだよと伝えたかった。
学会で会う高齢ポスドクが思ったより元気じゃん!けっこう楽しく生きてるんだね!と言われてるのは、それは彼ら彼女らが自らの苦しみを隠すすべをみにつけているから。それは他人から隠すというより、自分から隠すために。
目の前にある絶壁を見て見ぬふりをするか、思い切ってとんだら飛べるんじゃないの?って思ったり。
そんなうだうだしたことを10年も考えていて、悟りをひらいたように、でも実はまったくそんなことはなくて、俗っぽい考えに毎日飲み込まれている、そんな人達に、僕もそうですよ、と伝えたかった。
ストレートの道筋、いわゆる助教ー准教授ー教授という生き方に憧れをもったことはないって言うと負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、ほんとに僕は”負け”とは思ってない。書けば書くほど負け惜しみに見えるけど(笑)。彼らは彼らの才能を活かしてるのだから、それは素晴らしいと心から思ってるし、自分はそういう生き方をする”才能”がなかった。でも才能なんてのは唯一無二のものじゃなくて、僕にはこうやって遠回りして砂を噛みしめる生き方をする才能があった。
ずっとここに書いているけども、一流として突っ走ってる人もいれば、僕のような人間もいるし、どちらも必要だ。どちらもあるほうが健全だとおもう。社会として。
でも、なぜか僕ら二流は自分を卑下してしまう。それに打ち勝つのはかなり大変だけども、せめて傷をなめあうことで生きていけるんじゃないかなと思っている。
僕のように海外あるいは日本で高齢ポスドクをしていて将来がどうなるかなんてこともう考えなくなったという人たちと、ま、しょうがないよね。でも、僕たちは僕達なりの人生があるんだから、それに集中しましょうよ、と言いたいし、実際ここで言ってきている。
ああやって、日本でわけわからないくだらない問題でこの半年騒がれてるのを見てると、自分達二流ポスドクは収入的にも名声もあの人たちのようにはなれてないけど、よっぽど充実した人生を歩んでると言えるんじゃないかな。少なくとも科学に対してもう少しピュアな目線で見ることができてると思う。
それは素晴らしいことだ。幸せなことだと僕は思う。
10年もポスドクし続けて、才能ないんだからさっさと研究から足洗えよと、陰であるいは面と向かって言われているであろう、僕ら高齢ポスドク。それは事実だから受け入れるしかないよな。
でも、ま、そんなカリカリしないで、楽しく生きようよ、と言ってあげよう。
そりゃ、サボってきたし、頭も悪いし、要領も悪いけど、ここにしがみつく意地だけは人並み以上にあるんだから、それは一つの才能なんだから、こうしてまだ生きられる幸せは自らの才能の賜物なんだから、反論はせずに、でも心を折らずに前を見て生きていきましょう。
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